YU

奴隷

逃げるって楽しい

 

中毒みたいなものだ。

 

最近の私はこの中毒にハマってしまっていたみたい。

 

遊びに逃げて

 

男に逃げて

 

別のビジネスに逃げて

 

快楽の中でとことん生きてみて

 

 

この前言われたんだ。

 

「○○ちゃんって、人間らしいよね」

 

「人間らしい?」

 

「うん。なんか、欲に忠実」

 

 

本当に。なるほどって思った。

 

私はそういう意味で言ったら、きっと誰よりも人間らしい。

 

 

でも、今の私には虚無感しかない。

 

生きてる感じがしない。

 

 

働きたくない。

 

あんな閉じ込められた「社会」という檻に入れられたくない。

 

あそこは奴隷みたいだ。

 

その周りの、別の空間から、その奴隷をみて楽しんでいる人達がいる。

 

酒、ギャンブル、遊び、娯楽、

 

あらゆる甘い果実を吸わせて

 

飴と鞭で働かせる。

 

 

卑怯だろうか?

 

酷いと思うのだろうか?

 

いや、そうは思わない。

 

 

彼らは賢い。

 

私はそっちにいたい。

 

 

狩られるか、狩るか。

 

 

でも、それには自分で獲物を狩りにいかなければならない。

 

獲物は金。

 

狩る手段は?

 

いくつも知っていた方が柔軟性が効く。

 

でも一つを極めた方が、狩れる確率も上がる。

 

 

先ずは極めなきゃいけない

 

自分で、狩るためのスキルを身につけなければならない。

 

今の私にはそれがない。

 

 

やらなきゃ。

 

出来るだけ早く。早く。

 

でなきゃ私は「生きて」いけない。

 

 

正夢って実際凄くない?

この前また正夢を見た。

 

「正夢を見た」って表現で合ってるのか分からないけど、とりあえず「夢で起こった事が現実に起きた」

 

といっても、この現象はもう小さい時から数えたら、かれこれ10回は超えている。

 

だから小さい時は

 

「ねえ!これやばい!夢で見たやつだ!ねえねえ!お母さん聞いて!」

 

みたいなノリだったけど、今じゃ

 

「あ、これ前に夢で見たやつだ。この後物落ちるなー。あ、落ちた。」

 

って感じに淡々と見ている事が多い。

 

実際正夢を見る人は本当に沢山いると思うし、母曰く「よくある」事らしいのだが、

 

これって凄いことなんではないのだろうか?

 

とたまにふと思ったりもする。

 

皆んな、「夢で未来を予測する」なんて能力を持つ映画の登場人物を見ればすげーってなるのに

 

「正夢みたー」ってなるとふーん。なのは何故なんだろう。

 

私なんて、実はご先祖様が巫女かなんかだったのではと思うくらい盛り上がっていたのに、母の

 

「あーよくあるよねー。」

 

の一言で夢が途絶えた瞬間を今でもよく覚えている。

 

正夢って、人の可能性を身近に感じさせてくれる現象の1つだと思う。

 

今度「正夢 研究」でググってみようと思った今日この頃✍︎

 

責任

結果が出るまで、やり続けろ。

それが 「責任」 。

 

必ず反対される。

でもあなたがそれを望むなら

 

証明しなければならない。

 

結果を出すことを、ではない。

 

結果を出すまで、努力出来ることをだ。

 

 

もし私が成功したら、

両親も親戚も皆私を認めるだろう。

 

そして恐らく、私の道を否定し、閉ざそうとした事に罪悪感を持つかもしれない。

 

可能性を潰そうとした事よりも

人の可能性について深く考えるかもしれない。

 

しかし私がそこで卑屈になることはないし、態度が変わる事も無いし、その反応に対して喜ぶ事も無いだろう。

 

何故ならそれが当たり前の

人間らしい反応だからだ。

 

結果が無ければ反対する。

 

当たり前の事。

 

ただ、結果が出ていなくても応援してくれていたら、嬉しかったなってだけであって。

 

当たり前だけど、当たり前の反応だったことが少しだけ、悲しかったし

 

応援して貰えるように、証明出来なかった自分の無力さを、心の底から感じた。

 

 

親や親戚の「心配」と言う感情は、

本当に有難くも厄介だ。

 

 

なぜ、厄介なのか?

 

 

私は1つ、明確に答えがある。

 

私を試す為だ。

 

ここを超えられるかどうか、

本気かどうかを試す

最初の壁が両親だと思っている。

 

 

本当に有難いこと。

 

ここを超えることで、自分が本気ということを実感出来た。

 

でもだからこそ、

それに対する自由には、

重過ぎるくらいの責任が伴う。

 

苦しいしつらい。

 

じゃあ諦めるのか?

 

そうはいかない。

 

私は何故、この道を選んだんだ。

 

より自分の人生を生きて

 

より高い喜びを知る為。

 

だから、この責任も喜んで背負おう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きなこと

私は優柔不断だ。

 

とんでもなく優柔不断で

 

本当に行動を起こすのが遅くて

 

のんびりし過ぎて

 

ご飯を食べるのも遅いし

 

記憶力も悪いし

 

目も悪いし

 

運動だってすぐに息が上がる。

 

これだけ見たら、皆んな私のことをお婆ちゃんかなって思うんじゃないかな(笑)

 

 

でも、

 

 

私は皆んなよりも1つだけ、長けているところがある。

 

 

私は、好きな事しかやらない。

 

 

そして、楽しめるものなら、自分でも驚くくらいのスピードで習得できる。

 

 

道も人の名前も顔も覚えられないくらい、記憶力はとんでもなく悪いけど、

 

数学や英語は楽しかったから、すぐに覚えられた。

 

 

人よりも心臓が弱くてすぐに息が上がってたけど、

 

走る事が好きだったから、マラソンはいつも1番だった。

 

 

優柔不断で中々決まらなくて、

しかも飽き性で続かなくて

 

 

でも22の歳、生まれて初めてのめり込めるものを見つけた時

 

すぐに10個以上歳上の先輩達よりも結果を出した。

 

 

自慢に聞こえるのだろうか。

 

 

でも、初めの文章を読んでいた時は、

そう感じなかったはずだ。

 

 

私だけ優れているのか?

 

そんなはずはない。

 

 

私は、RPGゲームで言うなら

 

勇者でもなく

魔法使いでもなく

鍛冶屋でもなく

 

村人Bみたいな存在だ。

 

 

何が言いたいのかって

 

 

これって、私だけじゃなくて

 

皆んなそうだと思うんだ。

 

 

好きな事をやれば、結果が出るのは

 

当たり前の事だと思う。

 

 

だって、好きだったら

 

結果が出るまでやるし

 

結果が出なくても楽しいからやる。

 

 

私は、好きな事しかやりたくないから

 

その想いがひたすら強いから

 

自由に生きたいから

 

今、必死に生きている。

 

 

でも、その過程が全て、楽しくてしょうがない。

 

 

今までがむしゃらに進んできたけど

 

 

少しだけ、道が見えてきた気がするんだ。

 

 

 

学ぶこと、教える事

 

最近気づいた事がある。

 

学べば学ぶほど、自分の無知に気づかされるということ。

 

学べば学ぶほど、分からなくなるということ。

 

知らない時の方が、知ってるように振舞っていたこと。

 

これはネットビジネスを通して気づいたことだけど、

 

どの業界でも同じなんじゃ無いかな。

 

何でも知ってるように話す人は

 

もしかしたら何も知らないのかもしれない。

 

謙虚で、何も知らなそうに話す人は

 

もしかしたら私達よりも深く、深く知っているのかもしれない。

 

知れば知るほど、

 

語る事に抵抗を覚えるようになるのは、

私だけなんだろうか?

 

教える事は2倍学ぶ事

 

結局、どんな立場にあっても、人は学ぶことしか出来ないのではないだろうか?

 

教えるってなんだろう。

 

気になったから調べてみた。

 

「教える」の「オシエ」は愛惜しむの「ヲシ(愛惜)」に接尾辞の「へ」がついたものであり、愛惜しむ心を持ち続けることがもともとの意味らしい。

 

義務感じゃなくて、そこには学ぶ人への愛があったんだって。

 

今とは全然違うなぁて思う。

 

いや、愛情持って教えてくれる人もいるけれど。

 

今の教える人達って

義務感

自己満足

そういった感情が多いんじゃないかな?

 

愛情で教えてくれるのって、両親くらいじゃないかな?

 

教えるってなんだろう。

 

確かに、好きな人、大切な人にしか、教えたいって思わないなぁ

 

後は自己満足か義務感。

 

本気で学びたい人もいないから。

本気で教えようとも思えなくて。

 

本気で学びたいと思ってやり始めたけど

本気で教えてくれる人がいなくて。

 

だから1人で、模索して、ここまできて

 

楽しいけど、少しだけ、たまに

 

寂しくなるときもある。

 

教育って、愛情からなってたのかぁ

 

 

 

 

兵隊みたい

鬼のような、怒涛な時間が過ぎていく。

 

朝は登校中にお客さんへのフォローと昼に投稿するSNSのチェック。

患者さんへのアプローチを考えつつ

今日の相場をチェックする。

 

実習中もガン化学療法の説明や抗ガン剤の調査、薬物療法やカルテのチェックなど他にもやらなきゃいけない事は全く終わらない

 

昼は唯一の楽しみの時間

お金は飛んでしまうけど、病院のお弁当を買って+パンも買って、ゆっくり味わって食べる。

もちろんチャートを確認して、

お客さんのフォローもチェックしながら。

 

午後は実際に患者さんを指導して、ケモの説明に必要な情報を収集。

膨大な量の覚えなきゃいけない薬の量に溜息が出そうになる。

 

病院薬剤師を目指すならまだしも、私が目指してるのは独立。

 

ここで頑張る事自体はいいのだけれども、興味のないことを学ぶ事ほど辛い事はない。

 

学ぶ事自体が嫌なんじゃなくて、

全く頭に入らない自分に嫌気がさすから。

 

帰り道、ぼーっとして歩きながら、猫に会った。

私は猫が好きだ。

自由に生きている姿が好きだから。

私の人生のメンターは猫かもしれない。

 

そんな事を思いながら駅に向かう

スーツ姿のサラリーマン

みんな同じに見えた

 

規則を守ることが美徳

ルールを守ることが美徳

きちんと真っ直ぐ整列することが美徳

兵隊みたい

 

 

周りへの気遣い?

思い遣り?

 

当たり前になると、感謝を忘れる。

 

真っ直ぐ整列する事が当たり前になると、はみ出た人に不満が飛ぶ。

生まれるのは不満だ。

 

元からバラバラだったら、

真っ直ぐ並ぶ人は賞賛される。

生まれるのは賞賛だ。

 

進めば進むほど、不満が生まれて

戻れば戻るほど、感謝が生まれるのなら

 

私は後者の方がいいなって思う。

 

 

 

2017.7.2 自分との約束

半月

横浜で

1年の半分になる7月2日に

私は自分自身と約束をする。

 

今23歳。24歳の7月2日に

 

必ず自立して、またここに来る。

 

自分自身に、認めてもらう。

 

必ず今やっていることを形にして、またここに来る。そして自分自身に認めてもらう。

 

約束。

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